ファミリーヒストリー

初代 勝彦は1944年3月6日に静岡県藤枝市堀之内に生まれました。父親の孝一は軍人で初代が生まれた時には中国(上海)にいて、終戦後は一時捕まっていたそうですが、仲良くしていた中国の方に助けてもらってなんとか帰ってきたそうです。日本に帰って来た後も孝一は追われる生活が続き、1949年に昔から千頭と静岡の間で交易をしていた母・せんの実家である川根に逃げるように移り住みました。

当時は井川ダムの建設工事が始まり景気が良かったそうです。その間、初代は母親と兄弟たちと藤枝市青島で育ち(孝一はたまに帰ってくる生活)、青島中学に入学(バスケ部に入部)、藤枝東高等学校に入学、文芸部に入り(文芸部の先輩には水車村の臼井さんがいました)卒業後、18歳で清水の石油会社に就職、23歳で川根(当時は本川根町 千頭)に来て冷菓販売業を受け継ぎ、25歳から兼業でお茶を始めました。

「やぶきた」の苗を2000本買って植えるところから始めましたが、「やぶきた」の他に在来種や「ふじいち」という品種を植えていたそうです。当時は高度経済成長期が始まり茶業も林業も活発でした。1971年8月に住んでいた千頭の家が火事になり、徳山へ引っ越して来ました。その後、焼津市出身の由美江と友人を介して知り合い、「お茶の始まる前に結婚しよう!」と1978年4月16日に結婚しました。勝彦33歳、由美江30歳のことでした。

1979年2月に長男、1982年10月に次男の二代目 健二が産まれました。健二は幼少の頃から自転車を改造して乗り回したり、保育園を中退したりと多感な少年時代を過ごしました。小・中学生の時はサッカーに熱中したものの高校に入るとサッカー熱は冷めてしまい、帰宅部でした。就職氷河期だった20歳の時に特に思い入れのないまま、地域の荒茶工場のアルバイトに入りました。まだお茶が売れていた時代で活気があり、お給料も良かったそうです。不純な動機からなんとなくお茶の世界に入った健二ですが、次に勤めた荒茶工場(そこで妻・かほりと出会い、結婚)ではその面白さに気付き、荒茶の製造に熱中していきました。

しかし見た目や数値にこだわる注文に次第に嫌気がさし、悶々としていました。そんな時に楽しそうにお茶を作る父 勝彦の姿を見て、実家のお茶のことを初めて意識しました。健二32歳のことです。それから釜炒り茶の製造やイベントへの出店にも付いて行くようになり、切磋琢磨できる同世代のお茶関係の友人や面白いお茶にも出会うことができて世界が広がりました。念願だった小型の35Kの製茶機械を融通してもらい、荒茶工場を新設、更にひょんなことから釜炒り機も譲っていただいて、今に至ります。

火事でほとんど記録の残っていない鈴木茶苑の成り立ちをボケる前に初代に聞けて良かったです。

2020年07月10日