二代目と釜炒り機

二代目と釜炒り機


釜炒りと僕の出会いは五年ほど前になります。鈴木茶苑としては、更にその七年ほど前、町の茶業施設に釜炒り機を導入した頃からでしょうか。
その当時、僕自身は大型の製茶工場に勤めて、茶業を家業から分離し法人組織で運営継続していく事に邁進していたので、現在を思うとなんともあべこべな事をやっていたものです。
大型工場では一日で10トンの生葉を処理し2トン強の製品を毎日作っていました。
そう言ったところで、茶商さんや市場の要求にいかに沿えるか、だけを考えていた僕にとって、一回でたった12,3キロの生葉を炒って半日近く、萎凋を込みにしたら丸一日掛けて3キロほどの製品しか出来ない釜は全く興味がありませんでした(これは製法の一例で、規模や体制何から何まで違うのを無理やり対比しています。やり方次第ではもっと作れます。ただ蒸し煎茶にくらべれば効率が悪いのは事実だと思います。)

そんな僕が始めて釜炒り茶を意識したのは、町に台湾から講師がいらっしゃり一緒にお茶作りをする経験をしてからです。
茶業の知り合いが関係していた事もあって、ひょんな事から参加する機会に恵まれました。この事が僕の茶業人生を大きく代える事になるとは・・・
それまで紅茶やウーロン茶、釜炒り茶などにさして興味が無かったのは、いわゆる“良い物”を知らなかったのが第一。そして、“茶”という物は僕にとって楽しむ物ではなく、仕事として向き合うモノだった、と言う事が大きかったと思います。自分の範疇に無いと思った物事に全く興味が無いんです。つまり、自分が作れる物では無いと思っていた。
ところが、講師の方や集まった町内の茶業者各位、とりわけレジェンド級の方とも会話しつつ、目の前の茶に向かっていると、「これは製茶そのものだ」と言う事がストンと胸に落ちた気分でした。製茶しているのだから製茶そのものですが笑。
蒸し煎茶は生葉を蒸し、酵素活性を止めた後は各機械で加重を掛けて水分を揉みだしながら、熱風や伝熱で乾燥させていきます。キモは如何に均一に乾燥させるか。加重も綿密な風量や温度調整も、すべては同一茶葉内から,恒常的に乾燥させる。その一点に尽きると思います。
そして、釜炒り茶におけるプロセスも全く同様だと気がついたのです(この場合はいわゆる包種茶の製法を前提にさせていただきます)。
“香り”を出す工程だと思い込んでいた萎凋も、釜炒りでの一連のプロセスも、その主眼はすべて今まで僕がやってきた蒸し煎茶と何も変わらない。製品として目指す方向の多少の違いがプロセスとしての製法の違いであって、大きな製茶と言うくくりでは何も変わらないと気がついたのです。
するとがぜんと面白く感じます。おまけに今までは一日10トン。工程管理だけで一日が終るような製茶でした。
それが、一回生葉12キロ。一日頑張ったところで60キロ前後、製品で15キロほど。
そんな少量です。一釜一釜じっくりと向き合える訳です。いわばその時点での僕そのものが反映されているような気分すらしたものです。
縁あって今年我が家に来てくれた手釜と金子式青柳機械釜。これらは更に少量ずつで、手釜は生葉1キロ前後からじっくりと作れますし、青柳釜も最初の炒りは6~4キロ、それを二つを一つにまとめて仕上げていくのですが、それでも仕上がり製品はせいぜい2キロという具合です。
こうした茶作りは効率面ではもちろん良くは有りませんが、一茶農家として非常に楽しいものです。一つ一つの茶葉に対ししっかりと向き合い、自分がした事や足りなかった事が全て反映されます。茶農家としてこれ以上の至福の時間は有りません。

現代の製茶現場は大型化集約化が非常に進んだ訳ですが、果たしてそれは茶の世界に何をもたらしたでしょう。
消費者は飲料一つ取っても茶に限らずあらゆる選択支がある訳です。そして“茶”に対してもニーズは当然ますます多様になっていきます。集約型の茶業は、その多様性を奪ってしまった側面は否定できないと思います。
今こそ茶業は多様な価値観を提供できるか、それが求められていると思います。
小さく、一つ一つずつ茶に向き合ってお茶を作っていく、過去の茶業者が当たり前に行ってきた茶業。
それこそが今後の茶とそれを楽しむ皆さんにとって、真に必要な事だと信じています。

2020年11月25日