徳山の盆踊

毎年8月15日は地元・徳山の浅間神社で国指定重要無形民俗文化財「徳山の盆踊」が奉納されます。

諸説ありますが、浅間神社は1055年に豪族の土岐氏が徳山城を築城する際に浅間山に社殿を建立したのが始まりで、現在の場所へは1666年に元からそこにあった御嶽神社(創建1055年)に相殿として移され、さらに明治になった1877年に八幡神社も相殿として移され、三つの社を総称して、郷社浅間神社と呼ばれるようになりました。

南北朝時代に北朝方の今川氏が南朝方であった土岐氏を攻撃して敗り、以降は今川氏がこの地を支配するようになりました。京都の公家と関係が深かった今川氏により、山間の村もその文化的影響を受けたとされています。古歌舞伎の初期の形態に、動物仮装の珍しい地域的特色も加わる貴重な民俗芸能の『徳山の盆踊り』。古来より今に伝わる民俗芸能は今川氏から武田氏の世へ、さらに徳川幕府の天領地になった江戸時代から明治時代へと世が移り変わっても、変わらずに脈々と受け継がれ今に至る徳山が誇る伝統芸能です。

『徳山の盆踊り』は「ヒーヤイ」「狂言」が交互に演じられ、その合間に「鹿ん舞」が舞台の周囲で演じられます。
現在「ヒーヤイ」は小中学生の女子が踊ります。1950年代までは成人した男性が女装して踊っていました。小太鼓・鼓・横笛のお囃子に合わせて舞う、古歌舞伎踊りの初期の流れを組んだ古風で優雅な踊りです。演目により扇子や紅白の棒など様々な小道具を使い分けています。「ヒーヤイ」は唄の囃子言葉(掛け声)に由来します。演目は「神よせ」「四節おどり」「神すゞしめ」「桜花」「ぼたん」「かぼちゃおどり」「ひきはうた」です。
現在行われている狂言の演目は「頼光」と「新曽我」だけですが、十以上の演目の台本があり、一番古い台本には「宝暦九年(1759年)卯月」と記してあります。
「鹿ん舞」はかつてはその年に成人した男性が踊っていましたが、現在は主に中学生の男子が踊っています。紅白の棒を回しながら前後に飛び跳ね、畑を荒らす三人の鹿役を大勢のひょっとこ面をつけた人が追い立てます。鹿役は角をつけた雄鹿が二頭の雌鹿を従えています。

2019年08月21日