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商品名の由来

鈴木茶苑のお茶の商品名は川根本町に生息している動植物や山の名前などに由来します

 

大無間山


上煎茶
 「光」  川根本町にある日本百名山の光岳(てかりだけ)より。標高2591m。テカリは山頂近くの白い岩が、夕日に照らされてテカテカと輝いて見えたことに由来すると言われている。ハイマツの南限としても有名。

「大無間」 川根本町にある日本二百名山の大無間山(だいむげんやま)より。標高2330m。南アルプス深南部と呼ばれる山域に属する上級者向けの名峰。

 


普段使い煎茶
「黒法師」 川根本町にある日本三百名山の黒法師岳(くろぼうしがたけ)より。標高2068m。同じく南アルプス深南部エリアに位置し、国土地理院の地形図に名前が記載されている2000m以上の山としては、最南端に位置する山。

「無双連」 鈴木茶苑のある徳山を囲むようにそびえる歴史ある無双連山(むそれやま)より。南北朝時代に南朝方だった豪族・土岐(鴾)山城守が北朝方の今川氏と戦った徳山城という山城があった。

「森ノ段」 鈴木茶苑から徒歩3分の縄文時代の遺跡、土岐(鴾)山城守の館があった歴史ある丘より


品種煎茶
「鴾」   土岐(鴾)山城守の館があった場所に畑があることから

徳山郷煎茶「かぐら」県指定重要無形民俗文化財「徳山神楽」より。徳山郷は中世において大井川東岸を駿河国大津庄徳山郷(西側は遠江国山香庄河根郷)に属していたことから

 


香り釜茶
「山翡翠」 川根本町の町の鳥・ヤマセミより

「白八汐」 川根本町の町の花・シロヤシオより

「赤八汐」 川根本町の山に4月の終わりに咲くアカヤシオより

「赤翡翠」 初夏に無双連山でさえずる夏鳥のアカショウビンより


静岡型発酵茶
「青獅子」 町内に生息する天然記念物カモシカの異称



紅茶
「老練紅茶」 おじいさん(初代 勝彦)が楽しく作っているから

「火恋し」  老練紅茶を焙じた紅茶で、火が恋しくなる季節におすすめだし、製造したいから

アカヤシオ

シロヤシオ

2020年08月19日

ファミリーヒストリー

初代 勝彦は1944年3月6日に静岡県藤枝市堀之内に生まれました。父親の孝一は軍人で初代が生まれた時には中国(上海)にいて、終戦後は一時捕まっていたそうですが、仲良くしていた中国の方に助けてもらってなんとか帰ってきたそうです。日本に帰って来た後も孝一は追われる生活が続き、1949年に昔から千頭と静岡の間で交易をしていた母・せんの実家である川根に逃げるように移り住みました。

当時は井川ダムの建設工事が始まり景気が良かったそうです。その間、初代は母親と兄弟たちと藤枝市青島で育ち(孝一はたまに帰ってくる生活)、青島中学に入学(バスケ部に入部)、藤枝東高等学校に入学、文芸部に入り(文芸部の先輩には水車村の臼井さんがいました)卒業後、18歳で清水の石油会社に就職、23歳で川根(当時は本川根町 千頭)に来て冷菓販売業を受け継ぎ、25歳から兼業でお茶を始めました。

「やぶきた」の苗を2000本買って植えるところから始めましたが、「やぶきた」の他に在来種や「ふじいち」という品種を植えていたそうです。当時は高度経済成長期が始まり茶業も林業も活発でした。1971年8月に住んでいた千頭の家が火事になり、徳山へ引っ越して来ました。その後、焼津市出身の由美江と友人を介して知り合い、「お茶の始まる前に結婚しよう!」と1978年4月16日に結婚しました。勝彦33歳、由美江30歳のことでした。

1979年2月に長男、1982年10月に次男の二代目 健二が産まれました。健二は幼少の頃から自転車を改造して乗り回したり、保育園を中退したりと多感な少年時代を過ごしました。小・中学生の時はサッカーに熱中したものの高校に入るとサッカー熱は冷めてしまい、帰宅部でした。就職氷河期だった20歳の時に特に思い入れのないまま、地域の荒茶工場のアルバイトに入りました。まだお茶が売れていた時代で活気があり、お給料も良かったそうです。不純な動機からなんとなくお茶の世界に入った健二ですが、次に勤めた荒茶工場(そこで妻・かほりと出会い、結婚)ではその面白さに気付き、荒茶の製造に熱中していきました。

しかし見た目や数値にこだわる注文に次第に嫌気がさし、悶々としていました。そんな時に楽しそうにお茶を作る父 勝彦の姿を見て、実家のお茶のことを初めて意識しました。健二32歳のことです。それから釜炒り茶の製造やイベントへの出店にも付いて行くようになり、切磋琢磨できる同世代のお茶関係の友人や面白いお茶にも出会うことができて世界が広がりました。それから35Kの製茶機械を融通してもらい、荒茶工場を新設、更にひょんなことから釜炒り機も譲っていただいて、今に至ります。

火事でほとんど記録の残っていない鈴木茶苑の成り立ちをボケる前に初代に聞けて良かったです。

2020年07月10日

古くて小さな製茶機械たち

縁あって我が家にやって来た製茶機械たちを紹介します。
二代目の妻の友人のお父さん(となりの春野町の茶農家)が色々とお世話してくださって、お茶の製造をやむを得ない理由で辞めてしまったお宅から譲り受けてきました。昔はどんなお茶を作っていたのだろうかと思いを馳せながら、大切に使わせてもらっています。



宮村の6寸の蒸機と、平野の縦型ボイラー。写真のボイラーは今年(2020年)の新茶前に壊れたので同じタイプのものに買い替えました。一家5人の給付金はきれいにピカピカのボイラーになりました。壊れたボイラーは鈴木茶苑の入り口に目印になるように置いてあります。
6寸の蒸機は廃番です。6寸とは丸胴の直径(約18センチ)で、径が小さいほど処理能力は低いので廃れましたが、余分な蒸し露が付きにくく、品質的には優れていると考えています。


高林の粗揉機。現代の製茶機は形状を重視し、細くなる様に強く揉みすぎる傾向だと思います。元祖粗揉機メーカーである高林のこの機体は、お茶を揉み過ぎない絶妙な構造で、柔らかく揉みこみたいうちのお茶と相性が良いみたいです。

 

揉捻はカワサキの35K(手前)と6貫機(後ろの茶色いの)。カワサキをメインに使っていて、6貫機は小ロットの釜炒りなどをちょっと揉捻したい時に使っています。このサイズの揉捻機は紅茶作りブームの昨今非常に人気があります。

 

テラダ製6貫機の精揉機。「てらだ」と平仮名で書かれていて可愛いです。もう一台カワサキの35K機があって、そっちをメインに使っています。以前二代目が勤めていた茶工場の機械がテラダだったので、テラダ使いの二代目はカワサキの精揉機と仲良くなるまで時間がかかりましたが、だいぶ仲睦まじくなれたようです。「てらだ」はかなりガタがきていますが、古くて貴重なのでほぼオブジェです。
6貫機も35kの精揉機も今では作っていません。大量生産が重視された現代の製茶場面では、35kライン自体が貴重になりつつあります。製茶機メーカーも販売数の見込めない小型機械は注力出来ないのが現状です。
品質面では諸説あるのですが、一般には小型であるほど手揉みに近いとされています。
何よりも一軒一軒の農家が、昔の様に個々でお茶を作る事によって個性豊かなお茶を皆様に提案出来るのではないか。そう考えています。
前例と言うと大げさかもしれませんが、意欲がある農家が自分で製茶したいと、そう思ってもらいたいですし、実現出来る事をしめせれば嬉しいと考えています。

 

2020年06月10日

徳山神楽


毎年10月の第二日曜日に徳山神社で徳山神楽が奉納されます。
江戸時代前期に定着し、代々伝えられてきた静岡県指定の無形民俗文化財です。
巫女による「四座の舞」、両手に燃える松明を持って舞う「火の舞」など、15の舞が行われます。

2019年10月15日

徳山の盆踊

毎年8月15日は地元・徳山の浅間神社で国指定重要無形民俗文化財「徳山の盆踊」が奉納されます。

諸説ありますが、浅間神社は1055年に豪族の土岐氏が徳山城を築城する際に浅間山に社殿を建立したのが始まりで、現在の場所へは1666年に元からそこにあった御嶽神社(創建1055年)に相殿として移され、さらに明治になった1877年に八幡神社も相殿として移され、三つの社を総称して、郷社浅間神社と呼ばれるようになりました。

南北朝時代に北朝方の今川氏が南朝方であった土岐氏を攻撃して敗り、以降は今川氏がこの地を支配するようになりました。京都の公家と関係が深かった今川氏により、山間の村もその文化的影響を受けたとされています。古歌舞伎の初期の形態に、動物仮装の珍しい地域的特色も加わる貴重な民俗芸能の『徳山の盆踊り』。古来より今に伝わる民俗芸能は今川氏から武田氏の世へ、さらに徳川幕府の天領地になった江戸時代から明治時代へと世が移り変わっても、変わらずに脈々と受け継がれ今に至る徳山が誇る伝統芸能です。

『徳山の盆踊り』は「ヒーヤイ」「狂言」が交互に演じられ、その合間に「鹿ん舞」が舞台の周囲で演じられます。
現在「ヒーヤイ」は小中学生の女子が踊ります。1950年代までは成人した男性が女装して踊っていました。小太鼓・鼓・横笛のお囃子に合わせて舞う、古歌舞伎踊りの初期の流れを組んだ古風で優雅な踊りです。演目により扇子や紅白の棒など様々な小道具を使い分けています。「ヒーヤイ」は唄の囃子言葉(掛け声)に由来します。演目は「神よせ」「四節おどり」「神すずしめ」「桜花」「ぼたん」「かぼちゃおどり」「ひきはうた」です。
現在行われている狂言の演目は「頼光」と「新曽我」だけですが、十以上の演目の台本があり、一番古い台本には「宝暦九年(1759年)卯月」と記してあります。
「鹿ん舞」はかつてはその年に成人した男性が踊っていましたが、現在は主に中学生の男子が踊っています。紅白の棒を回しながら前後に飛び跳ね、畑を荒らす三人の鹿役を大勢のひょっとこ面をつけた人が追い立てます。鹿役は角をつけた雄鹿が二頭の雌鹿を従えています。

2019年08月21日
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